Tiffany.J『孤独人間解放』

死ぬまでに友達できたらいいな…

マジョリティもマイノリティも自他境界線を越えたがる

人間が攻撃するのは自分が生きていくため。

それがvs動物でも、vs人間でも。

食欲を満たすためなのか、睡眠欲(心身の安全安定)を満たすためなのかの違い。

まさに弱肉強食。

生きるためには強く、大きく、多勢でいなければならない。

人間同士では自分に脅威となる存在を牽制する。

人間同士の脅威とは何か。

それは”違い”だ。

自分と同じだと安心する。違うと不安になる。

違いはマジョリティ(多勢・集団)から弾き出されるかもしれない危機だから。

マジョリティから弾き出され自分一人が目立ってしまうと

それまでマジョリティの中で紛れていた自分の存在・姿が露わになってしまう。

物質的にも精神的にも一気に危険に晒されるのだ。

 

そういう意味で社会的弱者は同じような社会的弱者の完全な味方にはなり得ない。

心の中では痛いほど理解し共感できる。

しかし、実際に自分を晒し、身を挺し、自分の労力や財を投じて

自分も同じ仲間だと言ってその窮地から救い出すことができない。

マジョリティの中で必死で擬態し何とか保っている自分や家族が危機に陥ってしまう。

だからマジョリティの隅で自分の口を噤み、目を瞑り、耳を塞いで時が過ぎるのを待つ。

またはマジョリティの中心に率先して立ち、強者のフリをして弱者を攻撃する。

そうやってどうにか自分の心身の安全と安定を図る。

本当の意味で弱者を助けられるのは強者なのだ。

マジョリティである自覚すらない弱者から見た強者であることに

強者自身が気づく必要がある。

 

自分が普通である、標準の範囲であることはそれほど意識が向かない。

たいして自分が困っていないことは全てマジョリティの中にいるということ。

私はマイノリティを集約したような人間だから

多勢から一人弾き出されたような危機を感じることが多い。

それでも考えてみれば標準の範囲内であることもちゃんとある。

例えば身長は気に悩むほど低くも高くもない。

でも集団の中で目立つ人はマイノリティだと感じる人もいるだろう。

そうして人はあらゆるカテゴリーでマジョリティになりマイノリティになる。

マジョリティにいるカテゴリーが多い人は

安心しているし、人を信頼できるし、他人を頼ることができる。

私は他人を信頼しきることが非常に難しい。

いつ自分が多勢から弾き出されるかわからないから。

 

マジョリティは無意識で自他境界線を越えてマイノリティの領土に土足で踏み込み

マイノリティは無意識で自他境界線を越えてマジョリティの領土も自分のものと考える

結局、本当はどちらも境界線を曖昧にしたいのだ。

自分がマジョリティかマイノリティかを意識した途端

存在の危機感を感じてしまうが故に

自分の領土を広げたり、他人の領土を共有しようとしたりする。

 

完全に違いや多様性を認め合った共生社会を実現できる世界は不可能だろう。

しかし、近づいていくことはできる。

どのような心身の特徴があろうと社会的不利を被ることがなくなり

誰もが生きたい場所でしたいことをする権利が法的実質的に確立すれば

差別意識もいじめる必要性も無駄な競争も減らしていける。

むしろ、他人は自分一人ではできないことを補い助けてくれる存在であり

違いがあればあるほどありがたい存在だと心底思えるようになるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

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